山谷の歴史
元々は日光街道の江戸方面の最初の宿場であった。明治初期から政府の意向で市街地の外れの街道入口に木賃宿街が形成され吉原の遊郭の客を送迎する車夫等、戦前より既に多くの貧困層や労働者が居住していたが戦後になると東京都によって被災者のための仮の宿泊施設(テント村)が用意され、これらが本建築の簡易宿泊施設へと変わっていった。まもなく高度経済成長期が到来すると労働需要の高まりに対応し、日本有数の寄せ場として発展した。1961年には簡易旅館約300軒が建ち並び、労働者約2万人が集まる居住地となった。
1960年代以降、この地域に新設された山谷地区交番(通称「マンモス交番」、移転した後現在は「日本堤交番」に改名)の警察官との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が複数回発生した。騒動の直接の原因については様々な理由が挙げられているが、犯罪者や過激派などの煽動を指摘する説もある。
1969年、フォーク歌手・岡林信康が日雇労働者の悲哀を歌った『山谷ブルース』を発表した。岡林は山谷に長期滞在して作ったといわれるが、実際に滞在していたのは1週間程度だった。
1984年と1986年には、この地区で暗躍する暴力団(金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画『山谷(やま) - やられたらやりかえせ』を製作した監督2名が暴力団日本国粋会の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。
1996年に東京都と東京23区は互いの了解のもと路上生活者に各区が生活保護を行い、自区内で住居が決まるまで山谷に預ける「規則(ルール)」を作った。一時的に預けるという措置だったが保証人などの問題もあり、その後も各区が再度引き取ってアパートなどを探すことはあまりなく山谷に連れて行かれた後そのまま放っておかれるなど、長期にわたって住所不定のままになっている人が少なくない。こういったことから、山谷は「棄民の街」と揶揄されている。
近年では、この地区の主な住人である日雇労働者の高齢化と人口減少が問題になってきている。このことから、「労働者の街」から「福祉の街」に変わりつつあるという声も聞かれる。
こうした住人の変化に伴い、簡易宿泊施設には従来の労働者に代わって各国から日本に旅行にやって来る外国人達(バックパッカー)による格安のホテルとしての利用が増加している。英語表記の案内を施設内に充実させるなど簡易宿泊施設のオーナーらには外国人利用者の利用を促進したいという動きがみられる他、真新しい新築の簡易宿泊施設も次々と登場している。さらに近年では休みを利用した都内に旅行やイベントに来る国内外の若者が簡易宿泊施設を利用するケースも見られるようになっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
東京都台東区・荒川区にある寄せ場でドヤ街とされているところです。
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